会津の戊辰・・・会津の落城が決まった歴史の分岐点はどこにあったのだろうか、会津落城の分岐点は1862年、会津藩主・松平容保が京都守護職を受けた時にすでに決まっていたと言えるだろう。 当時、京都守護職を引き受けその責務を果たせるだけの財力と武力を持った藩は存在しなかった、 会津には重すぎる負担であった、京都守護職の要請が来た時点で藩の意見は辞退でまとまっていた、 松平容保もそのつもりであった、しかし当時の情勢がそれを許さなかった、 開藩時に徳川家に恩を受けた会津藩は受けざるを得ない状況を作り出されてしまったのだ、 この時点で会津の落城は確定された未来となった。 長州の恨みを買ったのも、藩の財政が切迫したのも全てこの京都守護職を引き受けたためであった、 戦争に負け会津を退去する藩主を領民たちは誰も振り返らなかったという、 財政が破綻した会津は領民に重税を敷き略奪を繰り返した、 そんな会津藩はすでに領民たちの怨嗟の対象でしかなかったのだ。 歴史にIFはない、しかしもしもこの損な役回りを会津が回避することができていたら、 会津の今は全く別のものになっていたであろう、 もっともこの貧乏くじは誰かが引かねばならぬくじであった、 会津が引かねば時代は新たな贄を求める、 血塗られた悲槍が向かう先は桑名か薩摩か。 ジャンル別一覧
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